主イエス様と弟子たちは、一時避難的にガリラヤ湖周辺から、ファリサイ派の人々が嫌って来ない異邦人の地ティルスまで来たのです。お忍びの旅でしたが、主イエス様のことはマルコ3:7-8にあるように知れ渡っていました。イエス様の一行に気が付いた一人の女性が、悪霊に苦しめられている自分の娘を助けてほしいと叫びながらついてきたのです。しかし、そんな異邦人の母親の願いとは裏腹に、主イエス様は冷たい態度を取られました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と。犬というのは、異邦人に対して使われた言葉でした。イエス様はあえて、小犬と言って軽蔑の意味を弱めてやんわりとこの母親の願いを断られたのです。しかし、母親は食い下がりました。
彼女は「ダビデの子よ」とイエス様を呼んでいます。彼女がメシアを信じていたことが分かります。そして彼女はイエス様の投げかけに「主よ、ごもっともです」と主の言葉を受け入れましたが、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と、謙遜に、しかし大胆に主の憐みを求めたのでした。このパンくずを英語訳の聖書で読むとスクラップとありました。ほんとうにそのようなスクラップのようなものでも今の私には必要なのですという、母親の強く、真剣な思いが伝わってきます。主イエス様はそのような真剣な母親の答えを聞き、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と娘を癒されたのでした。
彼女と、主イエス様とのやり取りは、ローマの百人隊長の僕が癒された場面と似ています。百人隊長は、神様の権威をわきまえていました。この女性も、自らが異邦人であり、ダビデの子と自ら呼んだ存在から遠いものであることを知っていたのです。それでも愛する娘のために、主に願ったのです。そのような彼女のなりふり構わない信仰、諦めない信仰を主は褒めたのです。私たちもまた、どれだけ真剣になれるのか、時に神様に冷たくあしらわれているように感じても、食い下がるような信仰を、私たちはこの女性から学びたいのです。