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1/23 礼拝メッセージ「主イエスの嘆き」

 主イエス様と3人の弟子が山に登っている間に、町の弟子たちのもとにてんかんの持病をもつ子どもが父親に連れられてやってきたのですが、弟子たちはその子どもを癒すことができず、イエス様の帰りを待っていたのです。並行箇所のマルコ福音書9章では、律法学者も加わって議論していたとあります。

 

 弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、悪霊を追い出しているうちに、神様に栄光を帰するのではなく、自分の力と思い込んでしまったのではないかと思うのです。また、父親もてんかんの発作を繰り返すわが子を、わらにもすがる思いで主イエス様のもとに連れてきましたが、弟子たちは息子を救うことができず、疑ってしまった。マルコ福音書には父親がイエス様に、「できることなら癒してください。」と主の力を半ば見限っているような言葉が出てきます。主はそのような父親に対して、「できればというのか」と問われました。父親はここではじめて「信じます、不信仰な私をお助け下さい。」と主に叫ぶように願うのです。

 

 主は、子どもの周りで、大人が神不在の論争をしている姿に、「信仰のない、よこしまな時代」と嘆かれたのです。子どもに主が声をかけると悪霊は出ていき、その子どもは癒されました。主は「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここからあそこに移れと命じても、その通りになる」と言われました。本当の信仰者は、自分の信仰を誇示するために山を動かそうとは思いません。その代わりに自分を犠牲にして確かな信仰を示した人々はコルベ神父や長野政雄さんなど大勢いるのです。弟子たちは、まだそのことが分かっていなかったのです。主は「いつまで我慢しなければならないのか?」と問われました。それは弟子や父親だけでなく私たちに対してでもあると思うのです。