主イエス様の一行がエリコの町を出て、エルサレムに向かおうとしていた時に、二人の盲人が道端に座り物乞いをしていました。マルコ福音書では一人の名前がバルティマイと紹介されています。彼は「目が見えるようになりたい」という言葉から、目が見えることの価値を知っていたわけで、生まれついたものではないことが分かります。目の病気か、事故だったのかそれは分かりません。ただ、砂が舞う地域では目の病気が多いそうです。そして目が不自由になるともう普通の仕事などできないのです。毎日毎日、道端に座り道行く人々からお金や食べ物をもらってどうにか生きるしかないのです。
しかし、彼は生きるために一生懸命周りで起きていることを聴いていたのです。そんなある日、いつもとは違う騒々しさを感じるのです。「ナザレのイエスが来るぞ」という声が聞こえたのです。ナザレのイエス?それは、今うわさになっているあのイエス様のことか?きっと彼だったら私の目を治してくれる!バルティマイは、大声を出して叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」道の片隅でいつもはじっとしているしかなかったバルティマイは、イエス様に目を留めてもらおうと必死で大きな声を出し続けました。群衆は、この途方もなく大声で叫び続けるバルティマイを制しようとします。「うるさいぞ、黙ってろ。」彼らには、バルティマイの切なる叫び、心の叫びは届いていませんでした。しかし主イエス様には、この叫びが届いたのです。「あの男を呼んできなさい。」そして、イエス様は言いました。「何をしてほしいのか?」主は、彼にとって何より必要なものをご存知でした。しかしあえて問われるのです。「何をしてほしいのか?」と。バルティマイはお金をくださいとは言いませんでした。「先生、目が見えるようになりたいのです。」とだけ言ったのです。イエス様は、その目に触れて癒されました。だれもが、よけて通るようなみすぼらしいバルティマイの目に主の温かな手が触れた。そして主は言われました。「いきなさい。あなたの私を信じる気持ちによってあなたの目は開かれた」と。バルティマイの喜びは、どれほどだったでしょうか。彼はもう元の場所に戻る必要はありませんでした。新しい生きる道が見つかったのです。それはイエス様に従うという道でした。
あなたが主に願っていることは何ですか?バルティマイのように自分の人生を自分の力で歩みたい、生きたいという願いを主はかなえてくださるお方です。私たちも主に切なる叫びをあげて生きていきましょう。