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5/15 礼拝メッセージ「主イエスの問い」

 エルサレム神殿で形式的に信じるのではなく、本質的に信じることを教えておられた主イエス様に対して、祭司長や民の指導者たちは、一触即発のような気持ちで主に質問しました。「何の権威で、このようなことをしているのか、誰がその権威を与えたのか」と。彼らは、主の語っていることの本質ではなく、「権威」を問題としているのです。権威とは正しいことを証明するものです。使徒パウロは、自分を弁明する時に、自分はローマ市民であり、ガマリエルという有名な律法学者のもとで、学んだと言っていますが、人はそのようなことを知って、安心したり信用するのです。イエスは、誰について学んだのでもなく、何の権威も持っていない。律法を勝手に解釈したり自分たちを批判することなど許されない。というのが祭司長や律法学者たちの言い分だったのです。自分たちこそ神の権威のもとにあることを自負していたのですから。

 

 しかしこの時、イエス様は逆に彼らに質問しました。ヨハネの洗礼は、何の権威によっているのかと。彼らは、それに答えることをしませんでした。彼らは事の本質ではない、権威、威信、体面ばかりを気にしていたのです。群衆を恐れていたのです。そのような態度に、主はもう一つぶどう園のたとえを使った問いをするのです。

 最初は父親の促しに行く気のなかった兄が、ぶどう園に行き、行くと言った弟は行かなかった、どちらが父親の望み通りにしたか?と祭司長たちに問うたのです。彼らは、兄のほうが、父親の言うことを聞いたと答えました。主は、彼らの答えを聞いて、「徴税人や娼婦たちのほうが、あなた方より先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考えなおして彼を信じようとはしなかった」と答えられたのです。

 

 私たちも神様との関係で、この弟のように空返事だけで何もしていないならば、主に従って生きることにはなりません。改めて、主の導きに真剣に向き合うものでありたいと思います。