主は、終わりの日「栄光に輝いて、栄光の座に着き、全ての国の民を、羊飼
いが羊と山羊を分けるように」より分けるというのです。主が右と左とに分け
て、右の人々には「天地創造の時から用意されている国」つまり神の国を、左
の人々には「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」つまり地獄が待
ち受けているのです。その理由は「私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇い
ていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見
舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」と。ここで、裁かれる人々は尋ねる
のです。右の人々は 37 節「主よ、いつ私たちが... 」と。主は「私の兄弟であ
るこの最も小さいものの一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」と。
そして、左の人々も同じように尋ねました。
この違いは実際に善き行いをしたかどうかなのです。宗教改革者ルターは、
行いの大切さを説いたヤコブ書を「わらの書」といって軽視しましたが、主イ
エス様を信じる「信仰による義」が絶対なら、この箇所の選びの基準は「私を
信じるか、どうか」にかかってくるはずです。しかし、主はそう言われなかっ
たのです。「はっきり言っておく。このもっとも小さい者のひとりにしなかった
のは、私にしてくれなかったことなのである」たとえ、主イエス様を信じてい
ると言っていたとしても、それが実際の生活で実践されていなかったら、それ
は無いに等しいのです。小さな者にする行いこそ、私に対する信仰だ、と主は
語るのです。主の教えは、単純で実際的であったのです。信仰と行いは分けて
考えるべきものではなく一つなのです。
私たちは、先に召された愛する方々から大切なものをバトンとして託されまし
た。それは命であり、信仰です。今日のみ言葉は、私たちが他者に対して誠実
に生きることは、私たちの救いにかかわっていることだと教えています。教会
創立 65 周年の私たちは、先に召された方々から多くの愛をいただきました。今
度は私たちが大切な人々のために、愛を示す番なのです。