マタイ福音書では、締め切っていたはずの部屋に復活のイエス様が入ってきたことや、トマスに傷を見せたこと、一緒に魚を食べたことなど、他の福音書に記されていることが全く省かれて、ガリラヤの山の上で主イエス様と出会ったことだけが記されています。このような福音書の記述の違いから、キリスト教に懐疑的な人たちは、イエス・キリストの復活を信じられないというのです。しかし、この違いこそ、聖書が偽物ではない証拠ともいえるのです。
礼拝堂から外を見て、皆さんに紙と鉛筆を渡して書いてもらったら、空にせよ、山にせよ印象に残ったものはそれぞれ違うでしょう。人間は同じ時間、同じものを見ていても、自分の興味や関心によって見方が変わるのです。そして、伝える相手が変われば、伝え方も変わるでしょう。
この福音書を記した元収税人のマタイは、「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というイエス様のみ言葉で救われました。イエス様が復活されてから、あれやこれやがあっても、マタイが自身の福音書に記したかった最後の締めは、主イエス様による「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という祝福と派遣の言葉なのです。「いつもあなたがたと共にいる。」とは、イエス様が生まれる時に、ヨセフが夢の中で天使に言われたインマヌエルという言葉と同じです。マタイがこの福音書を記した時、すでに主イエス様は天に昇られた後でした。マタイは天に昇られた主の不思議な様子を伝えたかったのではなく、主が語られた言葉を繰り返し思い出し、今も主は私と共にいてくださっているという深い喜びと、主から託された良き知らせを伝える使命を、マタイ自身がかみしめていると思うのです。復活の主は今もなおあなたと共におられます。