ペンテコステは、イエス様の弟子たちに聖霊の力が宿って福音を大胆に宣べ伝えだしたことから教会の誕生日と言われます。聖霊によって力を得たペトロが、弟子たちを代表し民衆を前にしてこの出来事の意味を語り始めました。まずヨエル書を引用して今が「終わりの時」であること、そして、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方であったことを伝えたのです。「はっきり知らなければならない。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのだ」と。このことを聞いた人々は、「私たちはどうしたらよいのですか?」と聞きました。ペトロは悔い改めて、イエス・キリストの名前によって洗礼を受け、邪悪なこの時代から救われなさいと勧めました。ペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けた人はその日だけで3000人以上になりました。
その聖霊の力は今に及んでいます。1コリ12:3「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えない」とあります。イエス様を主、神と信じることも聖霊の働きなのです。私には、聖霊が働いていないと心配するクリスチャンがいますが、不思議な力を与えられるだけが、聖霊の働きの証拠ではありません。ちゃんと助け主、慰め主として共にいてくださっているのです。
また、秦野に住む人々や私たちの大切な人々に福音を伝えるために、何をしたらよいのか、何ができるのだろうか?と祈って考え出すこと、思い巡らすこと、語り合うことは、聖霊の働きを否定することではありません。逆に全知全能なる神様が、私たちが何もしなくても教会員を増やし、子どもたちに信仰を継承してくれるなどと考えるほうが、信仰をはき違えていると言わねばなりません。私たちこそ、復活の主の証人であり、この地での福音の担い手なのです。主イエス様や弟子たちのように病気をいやす力はなくとも、異言を語れなくとも、少なくとも自分が救われたという奇跡を語ることはできるのです。私たちも、ヨエル書にあるように大いなる幻を見、夢を見ましょう。地の果てまでキリストの愛を伝える新たな旅立ちをしましょう。