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5/5 礼拝メッセージ「復活 それから④」

 ヨハネによる福音書は2世紀末のアレキサンドリアのクレメンスという神学者が、「精神的福音書」と表現するほど他の福音書とは違いますが、写実的な絵と印象的な絵があるように、他の福音書と違っても驚かなくていいのです。

 

 この21章が書き加えられた理由は、旧約聖書に記されていたメシアがガリラヤに現れるという預言への応答であり、もう一つは、主を3度否認したペトロの使徒としての働きの回復のためでした。異邦人のガリラヤに主がおられる。それはユダヤ人中心でないことを、そして思いがけない大漁も主に従う人々が、ユダヤ人以外にいるということを指し示しています。ペトロが主と知って、恥ずかしさのあまり湖に飛び込んでしまうというのも、聖書には裸同然だったからとありますが、主イエス様を3度知らないと言ったその負い目を伝えているのです。そのことは、この漁の後の会話で明らかになります。

 

 弟子たちが大漁で戻ってきた時、もう炭火が起こしてあり、魚もパンもあったのです。ですから、最初の「何か食べ物はあるか」という問いかけは、弟子たちの心を霊的なことに向かわせるための問いかけだったということが分かるのです。主は5000人の群衆に食事を与えた時、弟子たちに「何か食べ物はあるか」と問われました。その時、子どもが差し出した2匹の魚と5つのパンを祝福され全ての人にパンが行き渡り、なお余りが出た奇跡を私たちは知っています。今回は、弟子たちの持っている賜物を差し出すことを教えられたのです。そしてその問いかけはそのまま今に生きる私たちへの問いかけでもあるのです。

 

 「何か食べ物があるか」それはすなわち「私に差し出す何かはあるか」ということです。その問いかけに私たちはなんと答えられるでしょうか。何もありませんと答えるしかないのではないでしょうか。しかし主は全て用意してくださっているのです。そしてだめだとあきらめた先に可能性があることを私たちに示すのです。私たちの小さな賜物を主は用いようとされるのです。その促しに私たちの小さな賜物を悲観せず、恐れず応えていきたいと思うのです。