ヨハネ福音書の加筆はペトロの使徒としての働きの回復のためでした。福音
書のどれにも、ペトロの否認の記事が記されていますが、このような形で新た
に「愛する」という言葉が記されているのは、このヨハネ福音書だけです。主
の復活からペンテコステの出来事を経て伝道を始めた弟子たちの中心にいたの
がペトロであり、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」
(マタイ 16:18)と主イエス様から託された福音の正当な後継者として、最後
にこの出来事を書き加える必要があったのです。
主はペトロに語りかけます。「この人達以上に私を愛しているか」と。イエス
様だけを、他の人以上の思いで愛するかということが問われたのです。このイ
エス様の問いに対して、ペトロは「はい、主よ、私があなたを愛しているのは、
あなたがご存知です。」と答えましたが、同じ問いが3回も繰り返されました。
確かにペトロの言葉の通り、主は何もかもご存じでありました。「たとえみん
ながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った、ひたむきに主に従お
うとするペトロ、そして3度の否認。矛盾した言葉と行い、これが私たち人間
の持つ罪であり、弱さなのです。
日本語の聖書では分からないのですが、実はイエス様とペトロが使っている
「愛する」という言葉には、違いがあるのです。イエス様が話す愛はアガペー、
神の愛です。そしてペトロが答えていた愛はフィレオー、人間が友人に対する
友情の愛、友愛なのです。ペトロは最後までアガペーの愛で愛するとは言えま
せんでした。しかし、主はそれでもよしとされたのです。というのは、最後の
17節の主イエス様の「私を愛しているか?」と問われた愛するという言葉は、
フィレオーが使われているのです。イエス様は、ペトロがなし得るフィレオー
の愛に近づいて下さったのです。
主の救いの御業は、今もなお進行形であり、聖書にはおさめきれないのです。
この「私たち」はまさに今を生きる私たちなのです。「私に従いなさい」という
主の呼びかけに応える私たちでありたい。