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6/23 礼拝メッセージ「神に喜ばれる宝」

 ヤコブ5章1節以下は、マタイ6章19~20節のイエス様の教えをそのまま踏襲しています。イエス様は、繰り返しこの世の富ではなく、永遠の富を得ることを私たちに語りかけます。この世の富は終わりの時に、蓄えただけ罪の証拠となる。そのような富ではなく、神様が喜ばれる宝を蓄えることをヤコブ書の著者は私たちに伝えるのです。

 

 イエス様は私たちに対して自分の生き方を問い直し、自分中心の生き方から、自分を捨て、互いに愛し合いなさいという掟、天国のルールに生きることを求めるのです。それは、この世の価値観から自由になることをも意味しています。実際、私たちは主イエスの愛に触れ、罪赦され、天国の新しいルールに生かされている。主にある兄弟姉妹という絆で結ばれており、祈りあうことができる。信じあうことができる。この不正な時代にあってこれは奇跡であり、本当に感謝なことなのです。しかし、それが天に宝を積むということなのでしょうか。

 

 ルカ福音書12章33節では、施しをすることが天に宝を積むことと同一視されています。ザアカイは、財産の半分を貧しい人に施しますといってイエス様に「今日救いがこの家を訪れた」とほめられました。(ルカ19章)自分の財産や時間や賜物など痛みを伴って分かち合うことが、本当に天に宝を積むということであり、そして、一番大切なことは全ては神様からいただいているプレゼントという思いなのです。

 

 イエス様は、病む人を癒し、貧しい者の側に立たれました。キリスト者もまた、その視点で物事を見て、行うのです。社会福祉など、日本のよい面を支えてきたのは、間違いなく多くのクリスチャンの働きなのです。少子高齢化とともに、貧富の格差が広がっている現在、このような現実に私たちキリスト者は、黙っていてはいけないのです。何かしなければならないのです。確かに一人では何もできません。しかし、何かができるはずです。しかし、それも痛みなしにはできないのです。あなたは終わりの時にどのような宝を蓄えることができますか?主が、私たち一人ひとりになすべきことを教えてくださるように。