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8/4 礼拝メッセージ「詩編を味わう④永遠なる神」

 詩編90編は、1節に「祈り。神の人モーセの詩」とあります。数多い詩編の内、モーセの詩と言われるものはこれだけです。そして、彼は主語を「わたし」ではなく「わたしたち」としています。この詩はモーセと共に出エジプトをした人々のことも念頭において、祈っているのです。モーセは主なる神様の召しを受け、エジプト脱出の指導者として40年の苦しい旅を導きました。「苦しい」というのは、砂漠を旅する苦しさと同時に、人々の不平不満もあったのです。彼は5-10節「人は草のように移ろいます。…得るところは労苦と災いに過ぎない」と私たちに人生のはかなさを語ります。彼は実際に旅の中で朝には花を咲かせた植物が夕方になると枯れてしまう様を見たのでしょう。このような生活がいつまで続くのか、あなたの目には私たちの命はこの花のように一瞬でしかないかもしれませんが、それでも私たちには、この苦しさから逃れたいのです、主の喜びを得たいのです。というのがモーセの偽らざる思いだったでしょう。

 

 聖書には詩編以外ではモーセの歌と呼ばれるものが2つ記録されています。1つは、エジプトを脱出した時の喜びの歌(出エジ15章)、そしてもう一つは申命記32章に記されている遺言としての歌です。モーセは、約束の地カナンにたどり着く前に天に召される事を主なる神様から示されていました。ですから、ヨシュアをリーダーとして選び、彼に全てを託すのです。そして祈るのです。残された人々のためにこれまでの手の働き、すなわち歩みが確かなものであり、これからの歩みもまた約束の地に入るために確かなものであるようにと。

 

 確かにこの詩編のように人生ははかないものです。しかしそれは、地上での生という一場面でしかないのです。子どもが夕暮れになって家に帰るように帰る場所が信仰者にはあり、3節にあるように帰ることを主なる神様は願っているのです。

 最後に、詩編90:16-17は、今の私の祈りそのものです。教会も世界も将来に不安は尽きません。だからこそ、原点を見つめながら、神と人を愛するために、今私たちにできることは何なのか、共に祈り求めていきましょう。