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9/8 礼拝メッセージ「キリストこそ命」

 パラリンピックの競技を見て、目標のために人生を精一杯生きる姿に感動しましたが、それはこの手紙の著者パウロにも共通しているものです。

 使徒パウロはもともとローマ市民権を持った熱心なユダヤ教徒で、律法を軽視するキリスト教徒を迫害していました。しかしある時、不思議な形でキリストと出会い、彼はイエス・キリストこそ本当のメシア、神の子と信じるようになりました。彼は主イエス様と寝食を共にした12弟子ではありませんでしたが、もともと持っていたユダヤ教の知識とローマ市民権を利用して12人の弟子たち以上に旅をしてユダヤ人だけでなく異邦人にも伝道したことから「異邦人の使徒」と呼ばれ、彼が書いた手紙が、当時ユダヤ教とキリスト教の違いのあいまいだった点をはっきりとさせました。それでも律法を守りたいユダヤ人キリスト者によってフィリピの教会に混乱が起き、パウロはこの手紙を書いたのです。それでも、どんな形であれキリストの福音が宣べ伝えられていることを喜ぶと語っています。そして生きることも死ぬこともキリストの福音の前進のためなら、いとわないとパウロは言うのです。

 

 パウロは苦難に満ちた旅の中で、キリストの霊の助けと、仲間たちの祈りによって万事が益とされた経験をします。だからこそ彼は「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という証しにまでなるのです。

 このように思えるのは、信仰者の特権です。普通は恐怖や悲しみでしかない死も私たち信仰者にとっては、死は永遠の始まりであり喜びなのです。その時に向かって、私たちは生きている。だから最後の最後まで希望を見失わず、最善をなそうと生きていくことができますし、この世の他人との比較で、自分を自分自身で苦しめる必要がないのです。それでも私たちは、自分の信仰の中にある不信仰に苦しむかもしれません。まじめな人ほど自分のできなさ感に苦しむのです。私も牧師としての劣等感や人間としての足りなさを痛感することが度々あります。それでも、です。

イエス様は、こんな私を愛してくれている。だからこそ、私たちはこのままで精一杯神様に仕えていけばいいのです。パウロが喜んだように。