冒頭の「キリストの福音にふさわしい生活」のふさわしいという言葉は、英
語のマナーという言葉が使われています。では、キリストの福音のマナーとは
一体何でしょうか?礼拝を大切にする、聖書を読む、お祈りをするなどが挙げ
られますが、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも
人にしなさい。」(マタイ 7:12)、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるよう
になるためである。」(マタイ 5:16)ということでしょう。さらに聖書には「敵
をも愛すること」など、なかなかできないことも記されています。正直な方は、
敵を愛するなんてできない、だからクリスチャンにはなれないとあきらめる方
もおられますが、簡単にはできないから尊いのです。
使徒パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリス
トのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(29 節)と苦し
むことも恵みだというのです。この「苦しむ」という言葉はもとのギリシャ語
では「経験・体験」とも訳せる言葉です。私たちはキリストを経験・体験する
ことによって、イエス様の愛、神の愛がより一層自分のものとなるのです。
イエス様が経験されたことがまとめられているのが、フィリピの手紙 2:6-8
節です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固
執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、…へりくだっ
て死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。主イエス様は人と
なられて、およそ私たちが受けるような苦悩や誘惑もつぶさに経験されること
によって、私たちの友となられたのです。私たちも「従順」というイエス様の
姿に倣って与えるのです。親は子に良いものを与えようとします。その根底に
あるものは「愛」です。コヘレトの言葉は、何事にも時があると私たちに伝え
ます。時に苦しく悲しいことも、「愛」という絆で共に分かち合えば、それは
「喜び」に変わるのです。すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公
に宣べて、父である神をたたえる日が来ることを夢見ましょう。