マタイ福音書の書き出しは、超一流の「つかみ」であることが分かります。
僅(わず)か1、2秒で、当時の読者の心を鷲掴みにするほど衝撃的な書き出
しになっています。
本来、男性だけで綴(つづ)られるはずであるにもかかわらず、女性の名前
が出て来てしまっている。それも4人。しかも全員が「曰く付きの女性たち」
ばかりなのです。実は、そのようにして綴られていくダビデ王家の血筋が、歴
史の書物に登場しない、言わば「無名の人々」へと落ち込んで行く。そしてそ
の血筋に生まれたヨセフは、ナザレ村出身の大工だったとマタイは語ります。
大工が王様に出世していく成功物語でなく、王の末裔が没落して大工となった
ファミリー・ヒストリーなのです。そうした「没落の道筋」がこの系図によっ
て明らかにされていく。しかもその没落は大工の子で終わるのではなく、その
大工の子が十字架で、犯罪者として処刑されていく。確かに「アブラハムの子
ダビデの子、イエス・キリストの系図」と立派なタイトルが付いていますが、
蓋を開ければ、人間の罪、弱さや悲しみ、傲慢や妬み、そうした罪がドロドロ
流れているような系図です。でも、マタイは言うのです。「この石ころがゴロ
ゴロ転がる系図の中から、神が約束された通りに、アブラハムの子ダビデの
子、イエスを救い主メシアとして起こしてくださったではありませんか!その
同じ御力をもって、あなたたちにも神は必ず御力を表してくださいます!」と
断言するのです。たとえ私のファミリー・ヒストリーがどれだけ貧しく悲惨
で、汚されたものであっても、いやファミリーだけではありません、自分自身
の歩みがどれだけ暗い現実や経歴があったとしても、その私を救い出すため
に、御子は飼い葉桶に降りてくださった。それも、私の罪を贖うために十字架
の死に至るまで歩んでくださったのです。
私たちの喜びの源は、主イエスに愛されていることです。それも飼い葉桶に
生まれ、十字架に命を捨てるほどに愛してくださっていることです。そして、
その愛とは赦しの愛です。アドベントは飼い葉桶の主を待ち望む時です。