ナオミは、嫁ルツと共に約十年ぶりに故郷ベツレヘムに帰りました。そこで町の人々
のやさしさに触れて、思わず弱音を吐いてしまいます。ナオミは、「神は私を『ひどい目
に遭わせ』『うつろにして帰らせ』『悩ませ」』『不幸に落とされた』」と感じるようになっていました。そこでナオミは、自分の事を「ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ
(苦い)と呼んでください」と叫びました。ナオミは、すべての出来事の背後に主なる
神の御手があると信じていました。しかし、だから何が起こっても平気だというのでは
ありません。一度や二度ならともかく、何度も何度も不幸が続きますと、神は私のこと
を快く思っていないのではないか、とナオミは感じるようになっていたのです。ナオミ
は、「うつろにして帰らせた」と神に文句を言いましたが、ルツが共にいることを忘れて
いました。そして何よりも神がナオミの人生を最善に導いてくださっていることに、思
いを向けることができませんでした。使徒パウロは、「神を愛する者たち、つまり、御計
画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたし
たちは知っています。」(ローマ 8:28)と告白しています。私たちも、落ち込んでしまうことがあります。このような時、弱音を吐くことができる場所がある、仲間がいるとい
うことは何という恵みでしょうか。
クリスマスの夜、同じベツレヘムに来たマリアとヨセフは、居場所を失い「家畜小屋」
へと追いやられました。ベツレヘムは、ナオミとルツの時のようなやさしさを失ってい
ました。軍事力、経済力、暴力といった力が世界を支配していたからです。力が発揮さ
れる所では、弱さは罪です。イエス・キリストは、弱さの真っただ中に産まれて下さい
ました。その生涯を弱くされた人々と共に歩んでくださいました。ですから、主イエス
は、私たちの弱さをご存知です。神を信じていても、悲しみ、苦しみ、悩みを持ち、不
安に苛(さいな)まれてしまう。その弱さをご存知です。そして、その弱さを越えると
ころの人生の喜びを見させてくださいます。クリスマスは、弱さの中で生まれてくださ
ったイエス・キリストが、私たちの「マラ」(苦い)を「ナオミ」(快い)に変えて下さ
る日です。