今回の聖書箇所は、社会一般の基準から考えれば、全く納得のいかない話で
す。朝早くから働いている人と、夕方の終了直前に働き始めた人とが同じ賃金
であるというたとえ話です。神様は能力や労働時間、成果で人を見ないという
ことを、このたとえは私たちに教えてくれます。「後にいる者が先になり、先
にいる者が後になる」ことが実際に起こりうることを、私は 93 歳で受洗した義
理の父の信仰から教えられました。
気前の良い雇用主(神様)から与えられる恵みに対して、私たちはどのように
対応するのでしょうか。他人と比較して“気前の良い主人なのだから、遅く来
た人よりも長く働いている私には気前良く賃金を上乗せしてくれても良いでし
ょう”と思ってしまうのです。しかし、聖書は“妬み”を明確に“悪”と定義
しています。「天の国」の基準は全く違います。神様は人間の平等意識とか働
いた時間や業績、期待などにはお構いなく、その人にとって大切で必要なもの
を自由に気前よく与えてくださるお方だと明示されているのです。実はこれこ
そが、私たちの希望ではありませんか。神様は常に働き人を探して招いておら
れるのです。自分の能力や実績、努力を誇るのでなく、私に必要なものは、神
様からタイムリーに与えられるという希望があるのです。
義理の父は、寝たきりの病床にあって共に聖書を読み、讃美歌を歌い、神様
に祈りを捧げていました。その姿は「もっと多くの人をぶどう園へ招くために
出ていきなさい。」という神様から私へのメッセージのようにも思えました。
この自由で気前の良い神様だからこそ、独り子を十字架につけてまで私たち
を愛そうとされたのです。神様はあなたをいつでも招いてくださいます。そこ
ではこの世の基準ではなく、気前の良い神様の基準で、一人一人に恵みがあり、
その労苦へのねぎらいがあります。この方の前では、この世の価値観に縛られ
たり、互いに比較して誇ったり、自己卑下したりする必要はありません。心砕
かれて、素直な目で十字架の主イエスを見上げながら歩もうではありませんか。