マタイによる福音書 18 章は、主イエス様が弟子たちに対して、信仰共同体の
一員として何が大切なのかを語っている章です。そのきっかけは、「誰が一番イ
エス様に愛されているか、誰が一番偉いか」という弟子たちの論議でした。高
い山にただペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて行ったことで、残された弟子たち
は、なんで自分は連れて行ってもらえなかったのかと考えたことでしょう。弟
子たちの思いは、そのまま私たちの心の内にある思いです。人間の性(さが)で、
集団になると自分は上から何番目なのかということを考えたくなります。「Make
America Great Again(アメリカを再び偉大な国とする)」とトランプ大統領は
ぶち上げて、人々の心をつかみました。このときの弟子たちも、誰が一番イエ
ス様のおそばで食事をするかとか、イエス様の後を歩くのかとか、そんなこと
から順番を決める必要があったのでしょう。マタイ福音書 20 章にも、今度はヤ
コブとヨハネの母が登場して、王座に就くときあなたの両隣に座れるようにと
願う話が記されています。
しかし、主イエス様は、そんな弟子たちの前に子どもを立たせて「はっきり
言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入
ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で
いちばん偉いのだ」と言われました。そんな誰が偉いとか偉くないと言ってい
る心を入れ替えないと天の国にすら入れないと言われたのです。マルコ福音書
9章では、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕え
る者になりなさい」とも記されています。主の後に続いて一番先を歩きたい人
は、一番後ろになって、皆のために働く人こそ偉いんだということです。イエ
ス様は、まさに人生を上昇思考ではなく、下降思考という逆転の発想で生きら
れた。事実、イエス様は神の国から私たちの元へ下ってくださったのでした。
それはまさに古い生き方から、新しい生き方への転換を意味しています。
マタイ 18 章はこの後も、主の弟子として生きるために、私たちの「偉くなり
たい」という欲求や価値観の逆転を求める厳しい言葉が続きます。しかしその
本質は、他者への愛なのです。謙虚にその言葉に耳を傾けていきましょう。